Diary

衝撃


東日本大震災が起きてから5年間、キリスト教保育連盟東北部会に加盟する福島県の全施設と宮城県沿岸部を中心に被害のあった施設を訪問して来ましたが、今日は宮城県保育協議会の役員という立場でF大学の心理学の先生と一緒に南三陸町と気仙沼市の保育園を訪れ、震災からの5年間の歩みについてインタビュー(聞き取り調査)をしてきました。昨年10月末にも気仙沼にある幼稚園の100周年記念をお祝いするために出かけましたが、たった数ヶ月の間に高速道路の通行可能距離が延長され、あっという間に南三陸町へ到着することができたのですが、この南三陸町も数ヶ月の間に復興のためのかさ上げ工事が進み、震災遺構として残されることになった南三陸町防災庁舎は保存するための作業がされているのでしょう、カバーがかけられ見ることができませんでした。また、同じように震災遺構として南側の校舎が残されることになった気仙沼向洋高校も解体工事の準備が始まっているなど、震災があったことを窺い知ることができるものがなくなっていくことを痛感し、地元の方々はどう思っているのか、また自分自身、この変化(復興)を喜ぶべきなのかどうなの複雑な思いで考えさせられました。そして、今日衝撃を受けたのは本当にこんなところまで津波が襲ったの?という高台にある保育園の園庭に津波が来たという事実と、震災当時あちこちの幼稚園や保育園(我が園でも)の子どもたちがしていた「地震ごっこ」や「津波ごっこ」ではなく、砂遊びで「人探し」をしていた子どもがいたことを伺ったことです。それは、沿岸部で被害にあった方や行方不明者の捜索作業を見たからではなく、大人の話を聞いて子どもたちが遊びにしたということのようですが、これまで訪問した施設では一度も聞いたことのない遊び(出来事)に衝撃を覚え、あの震災が人々や子どもに与えた心の傷が数多あることを伝えて行かなければならないと思いました。
2017年01月26日(木) No.1987 (園長日記)

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