Diary

喜びとは


昨日から12月、教会ではクリスマスを迎えるための準備期間であるアドヴェント(待降節)に入りました。保育園でも各クラス一気にクリスマスの装飾がなされ、先週までの収穫感謝の雰囲気が一転してしまいました。僕は先週のうちに職員室の近くの木に夕方暗くなるとピカピカと光り出す電飾をセットしたのですが、そんな明かりに子どもたちは気付いて気付いてくれたようで、夕方、職員室のバルコニーから木を見て喜んでいる姿が見られます。本当は園庭に本物ののモミの木を植えて飾り付けをしたいのですが、あんな飾り付けでも子どもたちは喜んでくれるのでホッとさせてもらえています。
 さて、話は変わりますが、多くの方は日曜日に教会に行く、或いは行った経験があるということは少ないと思いますが、そんな教会では毎週日曜日に礼拝が行われています。そして、昨日の大河原礼拝の説教でおもしろいお話しを聞きました。それは、ある方が喜びというのは、神様からのプレゼントであると語ったいう説教です。喜びは私たちには作れない。作り笑いという言葉はあっても、作り喜びという表現はない。つまり、笑いはごまかすことができても、喜びはごまかすことができないというのです。ひねくれている僕は果たして本当にそうだろうかと?と考えたのです。もし、年末ジャンボ宝くじで7億円が当たったら喜ぶのではないかなどと…。しかし、考えて見れば、その喜びも確かに自分で作り出したものではないのです。前述のクリスマスツリーのことも子どもたちに喜んでくれることによって自分が喜ぶことができているのです。そして、こう考える(思う)ことができました。それは、どうせ喜ぶなら、与えてもらうのではなく、できるだけ人に喜びを与え、その結果自分が喜ぶことができるような存在でありたいとです。しかし、現実の生活は喜びばかりではなく、それどころか、辛く悲しいことの方が多いのが事実です。だからこそ、嬉しいこと楽しいことがあると、喜びが倍増するのかも知れません。もし、今日苦しみや悲しさがあったならば、明日はそれらが多くの喜びに変わるように願い努力しなければ。
2013年12月02日(月) No.1186 (園長日記)

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