Diary

・・・愕然


昨日はキリスト教保育連盟東北部会、放射線・震災特別委員会の委員として宮城県内(多賀城市、塩釜市、利府町、気仙沼市)の加盟園(幼稚園)を訪ねてきました。幼稚園はこの時期夏休みとなり、登園しているのは預かり保育の子どもたちだけということもあり、どの園もとても静かで、保育園との違いを再確認すると共に、とても懐かしく思いました。訪れた園でも当然間もなく震災から5ヶ月を迎えようとしています。時間の経過と共にどの園も地震による被害箇所は修繕を終え、子どもの安全を守るための新たなルールを決めたり、放射線の対応を考えたりしていて一見これまでと変わらない保育をなさっているようでした。
 ところが、三陸道を北上し国道に下り更に北上していく中で、多賀城や利府、塩釜との違いに痛感したことがあります。それは、気仙沼まで向かう国道45号線の海岸線沿いの津波被害の甚大さです。これまでも新聞やテレビ報道でその震災による被害状況の大きさを何度も見て、知っていたつもりでしたが、自分が想像していたことと実態のギャップの大きさ。自分の想像の甘さに打ちひしがれました。中でも南三陸町には大きな爪痕が残り、数年前、多くの方がアザラシの『うたちゃん』で沸きカメラ片手に賑わった川の付近にも、津波に襲われながら「津波が来ます。避難してください!」と女性職員が防災無線で叫び続けた南三陸町役場、防災対策庁舎の前にも、つぶれて形のない車や瓦礫が山積みされている。しかし、その現実(事実)が現実(事実)ではなく、夢か怪獣映画かハリウッド映画を見ている様にさえ思えるのです。小高い所にあった駅舎は辛うじて残っているものの、酷い所はレールが飴細工の様にニャグニャに曲がり列車が走っていたことすら想像できないほどになってしまった三陸鉄道。幼い頃連れて行ってもらった鳴き砂で有名な海水浴場も勿論人影はなく、代わりに重機が忙しそうにうねりを上げている。また、ライフラインを失った家屋では県外からのボランティアの方々が黙々と荷物や畳を運び出している。正に目を覆いたくなる風景がそこにはまだあるのです。ところが、そんな中、東京霞ヶ関では政治家が「復興・復興」と叫びながら何も変わらない。変えてくれない。その政治家の言葉はとても軽々しく、茶番劇を繰り広げているようにしか見えません。自分の目で現実を見れば簡単に「復興」とは言えない。そう思わされました。
 昔、自分の私財を投じ井戸と塀しかなくなってしまい「井戸塀議員」と言われたような政治家が出てきてくれることをこの国ではもう期待できないのでしょうか。昨日の地方紙には「昔の子どもは『総理大臣になりたい』と憧れを持っていた。しかし・・・。」という記事がありましたが。いい意味で愕然とさせられる出来事が訪れることを願い祈りたいものです。
2011年08月03日(水) No.455 (園長日記)

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